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    松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

    松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

    松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

2020/08/26

松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

松浦 邦雄「旧三菱高島砿業所の松浦事件について」

(1)はじめに

松浦事件は今から58年前、長崎港外の海底炭砿、

高島砿業所二子坑内の一採炭現場で起きた些細なトラブルで、

今思い出しても後世の教訓にも値しない幼稚な出來事でした。


これが何故 事件として大騒ぎになったかと説明する事で、

現在では考えられない非常識な当時の炭砿の労使紛争の一端を

私個人の自戒も含め遺言したく、一筆啓上致す次第です。


当時のこの事件にかかわった方で、現存者はもう極めて限られていると思います。

従って私の話は一方的との謗りを免れませんが、

虚構と御了承の上でお眼通し戴ければ幸いです。



(2
)松浦事件の当事者自己紹介

私は昭和33年3月末、W大学理工学部鉱山学科を卒業し、

4月1日三菱鉱業株式会社に入社、本社教育を受習後、

現場実習を兼ねて高島砿業所に赴任しました。


※高島砿業所
は、組織上 高島二子坑(通称高島砿)と、

端島坑 (
通称端島砿、軍艦島)の両坑で編成されていました。

私は赴任後 両砿で現場実習をしたのです。


東京での学生生活の4年間、私は九州の出身ながら江戸の名残に憧れを持ち、

特に下町界隈の散策を趣味としていました。

本所、深川など懐かしい思い出が今も忘れられません



2年に進級時、下宿も亀有駅近くに引っ越して、上野、浅草に近い事から

寄席や芝居小屋にも学業の合間に足繁く通いました。

女剣戟浅香光代との出会いも此処から始まったのです。


私は生い立ちが小倉だった所為か、無法松の一生や、川筋気質が肌に合い

成長してからは長谷川伸の小説に酔い

東京では義理と人情の浅香光代の芝居にスッカリはまりました。


大学で鉱山科を選んだのも、任侠の世界の炭砿こそ私の骨を埋める職場と考えたからです。

小倉は筑豊に近いので炭砿の事は身近に感じており、炭坑節にも深く馴染んでいました。


就職後赴任した高島砿は労使紛争真っ盛りで、私の夢見た古き良き炭砿とは全くの別世界、

これは大錯覚だったと気付いた時はもう後の祭り松浦事件の遠因は此処にあります



(3
)蛇足ながら (浅香光代さんとの出会い)

浅香さんのフアンは年配者が多く、私はお年寄りの間に挟まれ始めて芝居を見たのですが、

舞台から私は目だった様で、芝居が跳ねた後、出口で浅香光代さんに呼び止められました。


彼女は「学生さんですね? 貴方のような若い方が見に来て頂き 本当に嬉しい限りです。

これからは木戸銭など払わず、直接楽屋に来てくださいね。待ってますよ、キットですよ」


私はそのお言葉に甘え以後3年間、フリーパスで楽屋通いする事になり、

浅香さんは
私を弟の様に目をかけて下さり、

私の人生に大きな教訓を背中で示してくれたのです。


当時の浅草は女剣戟の花盛りで、大江美智子、不二洋子、中野弘子など

颯爽たる顔触れが覇を競い合ってましたが、

浅香光代の立ち回りは刀から火花が出る程の迫力がありました。


私が感服尊敬したのは、私よりも4才上の女性の身でありながら、

座長を務め、博学多彩芸達者に加え

多くの役者達を掌握して一座を纏め上げている指導力、統率力でした。


私は就職が内定した時、浅香さんに楽屋で

「九州長崎の軍艦島で石炭を掘る仕事を期待して三菱に入社しました」と報告し、

長い間の御厚情に感謝のご挨拶をしました。


その時 浅香さんの餞の言葉は、

私は日本一の女剣戟(役者)を目指して頑張っています

貴方もどうか日本一の鉱山技師になって下さいね

と云って力強く手を握られました。


そして日本刀一振りとオルゴールをお餞別に下さいました。

私は日本刀を胸に抱きしめ

日本一の鉱山技師を目指す事を約束し長崎に旅立ちました。

正に往きは良い酔いでした・・・



(4) 昭和30年代の高島砿業所二子坑( 通称 高島砿 )

昭和32年前半迄の職場は平穏な雰囲気があり、生産も比較的安定し、

従業員の多くは主に南九州各地の農家出身で純朴な気風があり、

正に炭坑節の世界だったと聞き及んでいます。


然し33年半ばより労使関係は次第に豹変「炭労」指導の職場闘争が高島砿にも浸透、

責任先山制度廃止後、払代表が選出され

作業指示に抵抗するなどの生産阻害行為が顕著に・・


※責任先山とは、採炭現場の作業進行推進役兼砿員の纏め役。 とは、採炭現場の通称。


当時総資本との対決を叫ぶ「総評」昔 陸軍、今 総評と言われた程の暴れ馬

「炭労」「総評」傘下で最先端を行くトップバッターでした。

※日経連や経団連を相手として


高島砿は 三井三池砿と並び称せられる三菱を代表するビルド(優良)砿であり、

「炭労」の指導による労使対決、そして末端における職場闘争の第一線にもなっていました。

※ビルド砿とは、低能率・低品質・不採算で早期閉山が宿命のスクラップ砿との対比用語


この為 現場は責任係員の指示の下、全員が出炭確保、

生産性の向上に努力するという
当然の組織運営が、

組合指令により切り崩され職場規律も乱れ作業意欲も低下・・・


もとより会社側は、この状態を傍観していた訳ではなく、

勤労課の管理体制を強化し合理的な交渉の実施により、

悪慣行の是正、正常作業の確保の為に努力をしたのですが・・・


ビルド砿として出炭確保を最優先せざるを得ない立場上、

会社側は組合の生産停止的行為に決定的な対決姿勢をとる事が出来ず、

最終的に譲歩妥協を図らねばならなかったのです



現場(坑務課)の係員達は、勤労課(労務担当課)から

「砿員と事を荒立てず、上手に作業指示しなさい」と強い口調で命令され、

作業指示よりも仕事をお願いする立場になりました。


同じ会社の人間でありながら、砿員をお客の様な接し方をしても、尊大になるばかりで

主従逆転、生産性の向上どころか、大半の採炭現場)は低迷する事態になりました。


正に主客転倒、職場トラブルを起そうものなら、

勤労課は当該係員に「人の使い方も知らんのか」と叱責する立場に変り、

後ろ楯を失った係員は仕事への意欲を徐々に喪失して・・


炭労傘下の高島労組は三菱は潰れても炭砿は残るを旗印に職場闘争に力を注ぎ、

係員に難癖をつけ、作業指示を妨害し、寄ってたかって吊し上げる様子が散見される事態に。


そこには、個人的な繋がりや、義理と人情の炭坑節の世界など遠い昔話に追いやられ、

ギスギスしたイデオロギー闘争が持ち込まれて、高能率の計画出炭の夢は遠い先の話に・・・


これはもう営利企業の形態を成しておらず、

高島砿は高品質で豊富な埋蔵量を誇るビルド砿にも関わらず、

作業能率は低下、出炭量は低迷、三菱鉱業の株価も額面割れ赤字に転落


需要家は炭砿スト続発による石炭の安定供給が望めなくなった事から、

徐々にエネルギーの供給先を安定した石油に切替える事になったが、

炭労はそんな事情をも意に介さずに。


結果として、炭労は石炭から石油へのエネルギー革命のお先棒を担いだ事になり、

採算の取れなくなった石炭の、そして炭鉱の寿命を奪っていく事に・・

正に先見の明なしでした。


読者の方で JR民営化以前に旧国鉄労組日常時限ストをご記憶ですか? 

お客の足を人質に、国鉄の赤字経営を意に介せず、

職場闘争に明け暮れていたのと酷似していました。


高島砿では昭和33年から試験切羽()定額賃金制度継続延長された為

砿員は当日の出炭量と無関係に定額賃金が貰えるので、

終業迄マイペースで仕事すれば良かったのです。

自然条件が異なる炭層に設定した新採炭現場能率給の算定基準が決まる迄の間定額給


極端な話、採炭機械やコンベア系統の故障になっても、

何ら気にする事なく、回復まで座りこんだまま。

以前だと「早く運転せんかい、銭にならんぞ」と怒鳴る雰囲気だったのに・・


定額給の現場では、目立つ仕事振りをする者は残業したくないのかと足を掬われ、

技能の低い者が職場委員として幅を利かせ、

真面目に働くのが馬鹿らしくなる雰囲気になり・・・


仕事始めに責任係員が砿員に現場状況や注意事項、作業指示のあと、

今度は組合側の払(職場)代表が組合の伝達事項を説明、質疑の後、

やっと作業にかかる状態が続いていました。


就業時間内に組合活動が許される事態、会社側が弱腰で組合側の生産管理を許した事になる。

出炭を焦る係員が低能率の砿員を追立てる形になれば、職場闘争側の思う壷に・・


砿員は払代表の指示で、作業をスローダウンして仕事を遅らせ、

残業に持込んで賃金増を図り、又民主化公平化と称し、

払代表が係員の頭越しに残業者順番制で指名割当てたり


組合側係員は採炭現場の安全を見守っていればよいのであって、

炭労指導により払代表のもと仕事は自分達で生産管理し

時間外作業で収入を増やす事
を考えていました。


過酷な石炭採掘の現場では、砿員は体力的に通常50才迄の年令が限度であったが、

高島砿では一旦採炭砿員となれば、定年迄現場で働く事が出来る様な悪慣行になっていました。


これが当時の高島砿業所二子坑の大方の雰囲気でした

同じ砿業所内の端島坑は組合が炭労傘下でなく全炭砿に属し

比較的穏健な全山一家の雰囲気二子坑とは雲泥の差でした。



(5) 松浦事件の経緯

私は33年高島砿業所に赴任、現場に必要な国家資格を取得後、

二子坑で優秀なM責任係員のもと、発破作業を始め現場係員の修行を積み

自立の機会を待ち焦がれていました。


そして待望の新設払に、松浦組(チーム)の責任係員として意気揚々と乗り込んだのです。

※入社4年目29才の私は周囲から松兄イと呼ばれる程に義理と人情の侠(イナセ)な男でした。

配下は副責任係員と発破兼務助手係員2名、採炭砿員40人の編成でした。


松浦組がスタートして3カ月後の昭和37年9月6日、

私は休憩時間後半にホーベルという

採炭機械の調節で石炭が詰りやすい付属ガイドチューブ内のチェーンの運転を命じました。


S払代表が同じ払内(採炭現場内)の電話から私に、

休憩時間にホーベルの運転はする事になっていないと言い、

2回にわたり運転ストップボタンを押してチェーンを止めた


休憩時間中の空運転は、既に直近でも4回も実施しており、

S代表がそうした実績を知らない筈がなく、

意図的なものがあったとしか考えられなかった


S代表はまだ年若くして(採炭現場)代表に選出された採炭員であるが、

民青(左翼的な思想にかぶれたグループ)まがいの言動をする職場活動家でもあったのです。


私はS代表に、「私は1昨日 Y代議員に対し、今後毎日空運転すると伝えている。

今日に
始まった事ではないのだ。

休憩後にホーベルが順調に稼動する為の準備作業である・・・

・・それを何故 非常用ボタンを押して停止させたのだ

勝手に運転を止めるなど生産を阻害する行為じゃないか。

お前は生産阻害者だぞ!


何を言ってやんでぃの気分でした。


その言葉にS代表が食いついて来たので、

「分った昇坑後話をつけよう」と電話を切った。

昇坑後 私は上司のZ係長に一部始終を報告し、S代表は組合上層部に連絡を取った由。


翌7日朝 F組合労働部長とN採炭職協会長がS代表らを集めて事情徴収した模様で

その後私を含めた会社側との折衝が始まり、話は更に上部レベルに持ち越されました。



(6)周囲の反響

事件は忽ち坑務課内の係員はじめ坑内工作課内の職員層にも広まり、

「よくやったぞ、負けるな!」の激励に囲まれた。

彼らは日頃の鬱憤を私の行動で晴らされた気持だった様です。


同時に係員達は会社側がこれを機に強気に転じてくれる事を期待し

成り行をじっと見守り、上司Z係長、K主任もまた、強硬な発言をして

私を援護し勇気付けてくれました


勤労課(労務担当)の関係者も

「オイオイ すごい事をやって呉れたなあ。相手も強気に出てくると思うが、

職場規律改革の突破口にしていきたい」と意欲的でした。


また私を育成しくれたM責任係員からも力強く励まされ

挫けてなるものかと、現場では職場委員達に毅然たる態度で接しながら、

一般採炭砿員には人間関係維持に配慮しました。


組合側は会社側がいつに無く強硬で、交渉の進展が難航して居る事を街角の組合掲示板に書き出し

又個人的に私の事を、思いもかけぬ表現で並びたてて評判になっていました。


払代表に萎縮などせず、啖呵を切ったことが組合幹部を驚かせたらしい。

時代錯誤の帝国陸海軍の亡霊が高島に現れたと切り出し

事件の内容を組合掲示板に書きたてました。


新婚早々の私のかみさんもご近所の噂を聞いて、

掲示板を見に出かけて、帰宅した私に組合側の表現を笑いころげながら報告し、

九州の江戸ツ子頑張れ!」と励ましてくれました。


世間慣れしていないかみさんが笑いころげるとは、

当時に組合がいかに左翼的で、国鉄労組まがいの世間の常識を逸した活動振りであるか、

お分かりの事と思います。



(7)交渉経緯要旨の要約

度重なる交渉の結果、9月8日に組合は会社側に申入書を送り、会社は回答書を返送した。

昭和37年9月8日付、組合側、会社側双方の言い分(要旨)は下記のとおりです。





組合側申入書(の要旨

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬 

三菱高島砿業所

 所長  中村 一郎 殿


S代表と松浦係員との問題について度重なる話し合いは遺憾ながら決裂を致しました。

当方は職場代表との話し合いの精神を無視し、

また生産阻害者という暴言についての会社の考え方は容認できません

従って、本日の松浦組の休憩時間中、残業時のホーベルの空運転は協力できません

また暴言についても、貴方の良識ある回答が得られないとすれば、

重大な決意を持って望まざるを得ません

しかし貴方の誠意ある話し合いには、何時にでも応じる用意がある事を付け加え、

ここに
申し入れます。  以上



会社側申入書(回答の要旨)

 

高島砿業所

所長  中村 一郎
三菱高島炭砿労働組合

 組合長  一ノ瀬 喬 殿


昭和37年9月8日付貴申入書を以って、本日の松浦組の空運転は実施しないという

通告に接しましたが、本件は休憩時間中のホーベルチェーンの空運転を

個人の恣意を以って停止させたい
という事から起こったものであり、

この空運転は故障防止のため、当日以前より当該払に於いて円滑に実施されている事であります

これに対し一種の争議行為を持って対抗される事は当をえないもので、

当方として誠に心外に思います。

特に当坑操業危機建て直しに労使が前向きに取り組まざるを得ない時に、

この様なことは
会社自体の問題としても、又社会的にも絶対に許されないことであるので、

問題を不当に拡大する事のない様に冷静に対処されるよう厳に要望します

尚 勝手に運転を中止した者等については、

実態究明の上就業規則に基づき処罰されるべきものである事を申し添えます。  以上


組合側執行委員会は会社側の申入書は、まったく誠意がなく、しかも一方的であるとして、

以下の反論と通告を行いました。




 組合側申入書(の要旨)

昭和37年9月13日

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬


三菱高島砿業所

所長  中村 一郎 殿


9月8日貴申入れによると

「絶対許されない」、就業規則に基づき「処罰さるべきものである」等は

全く事実無根、不当な貴方の一方的判断といわざるを得ません。

当方は、貴方のこの様な態度を容認することが出来ませんので、

下記の通り実力行使にはいり要求貫徹まで斗うことを通告します。

 

一 指標

   1 松浦係員の暴言撤回

   2 職場の民主化確立

二 期日並びに規模

   1  9月17日1番方より1時間50分時限ストライキ

   2  9月18日以降、坑内全職種一斉1時間休憩完全実   以上



(8)結末

組合の実力行使を背景に、9月16日最終団体交渉を再開した結果、

事件は9月17日早朝、次の覚書をもって急転直下解決しました。



 覚(要旨) 

一 今回の事件については、当事者ならびに労使代表を交え別途話合う

二 今後この種紛議を未然に防止し、職場の明朗化に努めるため次、

  (イ)休憩時間の作業で、払(採炭現場)全体に影響のある作業については、払代表に事前に連絡する。

  (ロ)生産阻害云々という如き言葉は、係員が不用意に用いないように教育する

  (ハ)休憩時間中、緊急作業で払代表に連絡しなかった場合は、機械を止めず、

     不審の場合は係員に連絡して確かめる。

   以上は高島の実態を認識し、職場の円滑な作業遂行に通ずるものであることを

   双方確認する。

   昭和37年9月17日

                    高島砿業所長      中村 一郎

高島炭砿労働組合長   一ノ瀬 喬

 

以上が公式的な交渉結末で、組合側のストは回避され、話は下部組織に差し戻されました。



(9
)まとめ

組合側の闘争宣言に対する最終団交は誠にあっけなく、

要は当事者同士で手打ち式をやれという内容
に終ったが

この程度の結末に日時をかける事は無かった筈、裏に何があった?


決着後、事件当事者の私に会社からの処分もなく

私も生産阻害者と言う言葉で謝罪した覚えもない

また無罪放免になったS代表も警戒感からか挑発的な言動は避けて通った。


記憶にあるのは組合側採炭職協会長N氏、S代表、上司採炭主任K氏と私の4人で

酒を酌み交わし唄を歌い、こんな事はもう起さぬ様にお互い努力しようと手拍子を打った事だけ。


N採炭職恊会長とは、過去の現場で共に仕事をしたので、知らぬ仲ではなかったし、

S代表の親分的存在でもあった。

本件の解決に炭坑の親分子分の関係が底辺で動いた様に思えた。


然し後で分ったのは、三菱本社の指令で、ビルド砿として対外的にも

ストだけは何としてでも回避せよと現地に厳命されていた由


そのための妥協が、水面下で行われた様だ。


そして私を庇い、励ましてくれた上司のK主任がまず転勤になり

暫くしてZ係長も転勤になった

思い過ごしかも知れないがこれは松浦事件と無関係ではないと受け止めた。


個人的な話として、一年後 転勤先のK氏、Z氏を個別に訪問して

ご迷惑をお掛けした事を詫びると同時に、

人事異動の真相に迫ったがお二人共 黙して語ろうとしなかった


お二人が事件を未然防止できなかった指導責任を問われた丈のもの、だったのか

お二人
の強硬姿勢を組合に狙撃されスト回避の為の生贄にされたのでは?

果して真相は??


末端係員の士気に及ぼす影響を配慮してか、

私に何のお咎めもなかったが、

お二人が私の咎を肩替りされたとしたら会社側の譲歩は明白!

勝馬気分の私は
一転、奈落の底に・・


私は入社前から端島砿(軍艦島)勤務を夢見ていたが

この事件で高島労組に背中を見せる訳に行かず、

端島のハの字も口にするまいと、自分に誓い、ぐっと我慢の毎日だった。

※学生時代より軍艦島に憧れ、是非端島で仕事がしたくて就職先に三菱鉱業を選んだ。


時移り松浦事件のほとぼりも醒めた昭和40年9月、坑内災害で休山中の端島砿が生産再開を機に

高島砿から派遣される技術陣の一員に私も加わり7年半の高島砿勤務に終止符

※昭和39年8月に端島深部区域の炭層が自然発火し水没放棄、浅部の三ッ瀬区域に新展開


過ぎ去りし往昔、良き人生勉強の場を提供してくれた今は廃墟の高島砿に、

とやかく言う積りはないが、忌まわしい職場闘争の体験だけは書き残しておきたいと思いました。


職場闘争のS代表は、私よりも年若く採炭鉱員としての経験も浅く、

ソ連を崇拝し、左翼かぶれのイデオロギーに染まり、

目を放せば仕事の手を休めていた人物でした。


令和の時代、この様な若者がいたとして、会社はかかる人物を永年雇用すると思いますか?

まして就業規則違反すれすれの行為を、会社は黙認しますか? 恐らく懲戒ものでしょう。


仕事をしてもしなくても給料が貰える。

定年まで職場の配置転換もしないで、過酷な職場レベルの賃金が貰えるなんて、

こんなパラダイスが、今時存在しますか?


部下に上手に作業指示していれば、トラブルは起きず、

四方丸く収まり仕事も進んだという見方もあった
のは事実ですが、

それで企業の生産性は向上し、存続できたでしょうか?


その後の高島砿は、ビルド砿として生き残りを賭けた会社側の厖大な設備投資や

対労問題の積極的改善で、やっと立ち直ったものの

時 既に遅し石油との勝敗は明白に


結果として高島砿は昭和61年11月27日を以って閉山、

従業員は全員解雇され、労組も翌年2月18日解散の憂き目に

三菱が潰れても高島炭砿は残る」の旗印は何だったのか?


会社が潰れても炭砿は生き残れると豪語指導した「炭労」も今何処に居るのでしょうか?

結局働く者を扇動した挙句、会社の寿命を縮め、失業させた無責任な活動屋は今どこに?


彼らは歴史の中にひっそりと消えて行きました。

ソ連に夢を抱いた若者達は、ソ連崩壊をどう受け止め、

冷戦後をどう生きたのだろうか?


Sさん今何処に? 元気でいるかい!



2020年 5月6日  松浦 邦雄 記(87才)

 



参考資料

 高島炭砿史           発行 三菱鉱業セメント株式会社

 三菱高島炭砿労働組合30年史  発行 三菱高島炭砿労働組合

(1)はじめに

松浦事件は今から58年前、長崎港外の海底炭砿、

高島砿業所二子坑内の一採炭現場で起きた些細なトラブルで、

今思い出しても後世の教訓にも値しない幼稚な出來事でした。


これが何故 事件として大騒ぎになったかと説明する事で、

現在では考えられない非常識な当時の炭砿の労使紛争の一端を

私個人の自戒も含め遺言したく、一筆啓上致す次第です。


当時のこの事件にかかわった方で、現存者はもう極めて限られていると思います。

従って私の話は一方的との謗りを免れませんが、

虚構と御了承の上でお眼通し戴ければ幸いです。



(2
)松浦事件の当事者自己紹介

私は昭和33年3月末、W大学理工学部鉱山学科を卒業し、

4月1日三菱鉱業株式会社に入社、本社教育を受習後、

現場実習を兼ねて高島砿業所に赴任しました。


※高島砿業所
は、組織上 高島二子坑(通称高島砿)と、

端島坑 (
通称端島砿、軍艦島)の両坑で編成されていました。

私は赴任後 両砿で現場実習をしたのです。


東京での学生生活の4年間、私は九州の出身ながら江戸の名残に憧れを持ち、

特に下町界隈の散策を趣味としていました。

本所、深川など懐かしい思い出が今も忘れられません



2年に進級時、下宿も亀有駅近くに引っ越して、上野、浅草に近い事から

寄席や芝居小屋にも学業の合間に足繁く通いました。

女剣戟浅香光代との出会いも此処から始まったのです。


私は生い立ちが小倉だった所為か、無法松の一生や、川筋気質が肌に合い

成長してからは長谷川伸の小説に酔い

東京では義理と人情の浅香光代の芝居にスッカリはまりました。


大学で鉱山科を選んだのも、任侠の世界の炭砿こそ私の骨を埋める職場と考えたからです。

小倉は筑豊に近いので炭砿の事は身近に感じており、炭坑節にも深く馴染んでいました。


就職後赴任した高島砿は労使紛争真っ盛りで、私の夢見た古き良き炭砿とは全くの別世界、

これは大錯覚だったと気付いた時はもう後の祭り松浦事件の遠因は此処にあります



(3
)蛇足ながら (浅香光代さんとの出会い)

浅香さんのフアンは年配者が多く、私はお年寄りの間に挟まれ始めて芝居を見たのですが、

舞台から私は目だった様で、芝居が跳ねた後、出口で浅香光代さんに呼び止められました。


彼女は「学生さんですね? 貴方のような若い方が見に来て頂き 本当に嬉しい限りです。

これからは木戸銭など払わず、直接楽屋に来てくださいね。待ってますよ、キットですよ」


私はそのお言葉に甘え以後3年間、フリーパスで楽屋通いする事になり、

浅香さんは
私を弟の様に目をかけて下さり、

私の人生に大きな教訓を背中で示してくれたのです。


当時の浅草は女剣戟の花盛りで、大江美智子、不二洋子、中野弘子など

颯爽たる顔触れが覇を競い合ってましたが、

浅香光代の立ち回りは刀から火花が出る程の迫力がありました。


私が感服尊敬したのは、私よりも4才上の女性の身でありながら、

座長を務め、博学多彩芸達者に加え

多くの役者達を掌握して一座を纏め上げている指導力、統率力でした。


私は就職が内定した時、浅香さんに楽屋で

「九州長崎の軍艦島で石炭を掘る仕事を期待して三菱に入社しました」と報告し、

長い間の御厚情に感謝のご挨拶をしました。


その時 浅香さんの餞の言葉は、

私は日本一の女剣戟(役者)を目指して頑張っています

貴方もどうか日本一の鉱山技師になって下さいね

と云って力強く手を握られました。


そして日本刀一振りとオルゴールをお餞別に下さいました。

私は日本刀を胸に抱きしめ

日本一の鉱山技師を目指す事を約束し長崎に旅立ちました。

正に往きは良い酔いでした・・・



(4) 昭和30年代の高島砿業所二子坑( 通称 高島砿 )

昭和32年前半迄の職場は平穏な雰囲気があり、生産も比較的安定し、

従業員の多くは主に南九州各地の農家出身で純朴な気風があり、

正に炭坑節の世界だったと聞き及んでいます。


然し33年半ばより労使関係は次第に豹変「炭労」指導の職場闘争が高島砿にも浸透、

責任先山制度廃止後、払代表が選出され

作業指示に抵抗するなどの生産阻害行為が顕著に・・


※責任先山とは、採炭現場の作業進行推進役兼砿員の纏め役。 とは、採炭現場の通称。


当時総資本との対決を叫ぶ「総評」昔 陸軍、今 総評と言われた程の暴れ馬

「炭労」「総評」傘下で最先端を行くトップバッターでした。

※日経連や経団連を相手として


高島砿は 三井三池砿と並び称せられる三菱を代表するビルド(優良)砿であり、

「炭労」の指導による労使対決、そして末端における職場闘争の第一線にもなっていました。

※ビルド砿とは、低能率・低品質・不採算で早期閉山が宿命のスクラップ砿との対比用語


この為 現場は責任係員の指示の下、全員が出炭確保、

生産性の向上に努力するという
当然の組織運営が、

組合指令により切り崩され職場規律も乱れ作業意欲も低下・・・


もとより会社側は、この状態を傍観していた訳ではなく、

勤労課の管理体制を強化し合理的な交渉の実施により、

悪慣行の是正、正常作業の確保の為に努力をしたのですが・・・


ビルド砿として出炭確保を最優先せざるを得ない立場上、

会社側は組合の生産停止的行為に決定的な対決姿勢をとる事が出来ず、

最終的に譲歩妥協を図らねばならなかったのです



現場(坑務課)の係員達は、勤労課(労務担当課)から

「砿員と事を荒立てず、上手に作業指示しなさい」と強い口調で命令され、

作業指示よりも仕事をお願いする立場になりました。


同じ会社の人間でありながら、砿員をお客の様な接し方をしても、尊大になるばかりで

主従逆転、生産性の向上どころか、大半の採炭現場)は低迷する事態になりました。


正に主客転倒、職場トラブルを起そうものなら、

勤労課は当該係員に「人の使い方も知らんのか」と叱責する立場に変り、

後ろ楯を失った係員は仕事への意欲を徐々に喪失して・・


炭労傘下の高島労組は三菱は潰れても炭砿は残るを旗印に職場闘争に力を注ぎ、

係員に難癖をつけ、作業指示を妨害し、寄ってたかって吊し上げる様子が散見される事態に。


そこには、個人的な繋がりや、義理と人情の炭坑節の世界など遠い昔話に追いやられ、

ギスギスしたイデオロギー闘争が持ち込まれて、高能率の計画出炭の夢は遠い先の話に・・・


これはもう営利企業の形態を成しておらず、

高島砿は高品質で豊富な埋蔵量を誇るビルド砿にも関わらず、

作業能率は低下、出炭量は低迷、三菱鉱業の株価も額面割れ赤字に転落


需要家は炭砿スト続発による石炭の安定供給が望めなくなった事から、

徐々にエネルギーの供給先を安定した石油に切替える事になったが、

炭労はそんな事情をも意に介さずに。


結果として、炭労は石炭から石油へのエネルギー革命のお先棒を担いだ事になり、

採算の取れなくなった石炭の、そして炭鉱の寿命を奪っていく事に・・

正に先見の明なしでした。


読者の方で JR民営化以前に旧国鉄労組日常時限ストをご記憶ですか? 

お客の足を人質に、国鉄の赤字経営を意に介せず、

職場闘争に明け暮れていたのと酷似していました。


高島砿では昭和33年から試験切羽()定額賃金制度継続延長された為

砿員は当日の出炭量と無関係に定額賃金が貰えるので、

終業迄マイペースで仕事すれば良かったのです。

自然条件が異なる炭層に設定した新採炭現場能率給の算定基準が決まる迄の間定額給


極端な話、採炭機械やコンベア系統の故障になっても、

何ら気にする事なく、回復まで座りこんだまま。

以前だと「早く運転せんかい、銭にならんぞ」と怒鳴る雰囲気だったのに・・


定額給の現場では、目立つ仕事振りをする者は残業したくないのかと足を掬われ、

技能の低い者が職場委員として幅を利かせ、

真面目に働くのが馬鹿らしくなる雰囲気になり・・・


仕事始めに責任係員が砿員に現場状況や注意事項、作業指示のあと、

今度は組合側の払(職場)代表が組合の伝達事項を説明、質疑の後、

やっと作業にかかる状態が続いていました。


就業時間内に組合活動が許される事態、会社側が弱腰で組合側の生産管理を許した事になる。

出炭を焦る係員が低能率の砿員を追立てる形になれば、職場闘争側の思う壷に・・


砿員は払代表の指示で、作業をスローダウンして仕事を遅らせ、

残業に持込んで賃金増を図り、又民主化公平化と称し、

払代表が係員の頭越しに残業者順番制で指名割当てたり


組合側係員は採炭現場の安全を見守っていればよいのであって、

炭労指導により払代表のもと仕事は自分達で生産管理し

時間外作業で収入を増やす事
を考えていました。


過酷な石炭採掘の現場では、砿員は体力的に通常50才迄の年令が限度であったが、

高島砿では一旦採炭砿員となれば、定年迄現場で働く事が出来る様な悪慣行になっていました。


これが当時の高島砿業所二子坑の大方の雰囲気でした

同じ砿業所内の端島坑は組合が炭労傘下でなく全炭砿に属し

比較的穏健な全山一家の雰囲気二子坑とは雲泥の差でした。



(5) 松浦事件の経緯

私は33年高島砿業所に赴任、現場に必要な国家資格を取得後、

二子坑で優秀なM責任係員のもと、発破作業を始め現場係員の修行を積み

自立の機会を待ち焦がれていました。


そして待望の新設払に、松浦組(チーム)の責任係員として意気揚々と乗り込んだのです。

※入社4年目29才の私は周囲から松兄イと呼ばれる程に義理と人情の侠(イナセ)な男でした。

配下は副責任係員と発破兼務助手係員2名、採炭砿員40人の編成でした。


松浦組がスタートして3カ月後の昭和37年9月6日、

私は休憩時間後半にホーベルという

採炭機械の調節で石炭が詰りやすい付属ガイドチューブ内のチェーンの運転を命じました。


S払代表が同じ払内(採炭現場内)の電話から私に、

休憩時間にホーベルの運転はする事になっていないと言い、

2回にわたり運転ストップボタンを押してチェーンを止めた


休憩時間中の空運転は、既に直近でも4回も実施しており、

S代表がそうした実績を知らない筈がなく、

意図的なものがあったとしか考えられなかった


S代表はまだ年若くして(採炭現場)代表に選出された採炭員であるが、

民青(左翼的な思想にかぶれたグループ)まがいの言動をする職場活動家でもあったのです。


私はS代表に、「私は1昨日 Y代議員に対し、今後毎日空運転すると伝えている。

今日に
始まった事ではないのだ。

休憩後にホーベルが順調に稼動する為の準備作業である・・・

・・それを何故 非常用ボタンを押して停止させたのだ

勝手に運転を止めるなど生産を阻害する行為じゃないか。

お前は生産阻害者だぞ!


何を言ってやんでぃの気分でした。


その言葉にS代表が食いついて来たので、

「分った昇坑後話をつけよう」と電話を切った。

昇坑後 私は上司のZ係長に一部始終を報告し、S代表は組合上層部に連絡を取った由。


翌7日朝 F組合労働部長とN採炭職協会長がS代表らを集めて事情徴収した模様で

その後私を含めた会社側との折衝が始まり、話は更に上部レベルに持ち越されました。



(6)周囲の反響

事件は忽ち坑務課内の係員はじめ坑内工作課内の職員層にも広まり、

「よくやったぞ、負けるな!」の激励に囲まれた。

彼らは日頃の鬱憤を私の行動で晴らされた気持だった様です。


同時に係員達は会社側がこれを機に強気に転じてくれる事を期待し

成り行をじっと見守り、上司Z係長、K主任もまた、強硬な発言をして

私を援護し勇気付けてくれました


勤労課(労務担当)の関係者も

「オイオイ すごい事をやって呉れたなあ。相手も強気に出てくると思うが、

職場規律改革の突破口にしていきたい」と意欲的でした。


また私を育成しくれたM責任係員からも力強く励まされ

挫けてなるものかと、現場では職場委員達に毅然たる態度で接しながら、

一般採炭砿員には人間関係維持に配慮しました。


組合側は会社側がいつに無く強硬で、交渉の進展が難航して居る事を街角の組合掲示板に書き出し

又個人的に私の事を、思いもかけぬ表現で並びたてて評判になっていました。


払代表に萎縮などせず、啖呵を切ったことが組合幹部を驚かせたらしい。

時代錯誤の帝国陸海軍の亡霊が高島に現れたと切り出し

事件の内容を組合掲示板に書きたてました。


新婚早々の私のかみさんもご近所の噂を聞いて、

掲示板を見に出かけて、帰宅した私に組合側の表現を笑いころげながら報告し、

九州の江戸ツ子頑張れ!」と励ましてくれました。


世間慣れしていないかみさんが笑いころげるとは、

当時に組合がいかに左翼的で、国鉄労組まがいの世間の常識を逸した活動振りであるか、

お分かりの事と思います。



(7)交渉経緯要旨の要約

度重なる交渉の結果、9月8日に組合は会社側に申入書を送り、会社は回答書を返送した。

昭和37年9月8日付、組合側、会社側双方の言い分(要旨)は下記のとおりです。





組合側申入書(の要旨

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬 

三菱高島砿業所

 所長  中村 一郎 殿


S代表と松浦係員との問題について度重なる話し合いは遺憾ながら決裂を致しました。

当方は職場代表との話し合いの精神を無視し、

また生産阻害者という暴言についての会社の考え方は容認できません

従って、本日の松浦組の休憩時間中、残業時のホーベルの空運転は協力できません

また暴言についても、貴方の良識ある回答が得られないとすれば、

重大な決意を持って望まざるを得ません

しかし貴方の誠意ある話し合いには、何時にでも応じる用意がある事を付け加え、

ここに
申し入れます。  以上



会社側申入書(回答の要旨)

 

高島砿業所

所長  中村 一郎
三菱高島炭砿労働組合

 組合長  一ノ瀬 喬 殿


昭和37年9月8日付貴申入書を以って、本日の松浦組の空運転は実施しないという

通告に接しましたが、本件は休憩時間中のホーベルチェーンの空運転を

個人の恣意を以って停止させたい
という事から起こったものであり、

この空運転は故障防止のため、当日以前より当該払に於いて円滑に実施されている事であります

これに対し一種の争議行為を持って対抗される事は当をえないもので、

当方として誠に心外に思います。

特に当坑操業危機建て直しに労使が前向きに取り組まざるを得ない時に、

この様なことは
会社自体の問題としても、又社会的にも絶対に許されないことであるので、

問題を不当に拡大する事のない様に冷静に対処されるよう厳に要望します

尚 勝手に運転を中止した者等については、

実態究明の上就業規則に基づき処罰されるべきものである事を申し添えます。  以上


組合側執行委員会は会社側の申入書は、まったく誠意がなく、しかも一方的であるとして、

以下の反論と通告を行いました。




 組合側申入書(の要旨)

昭和37年9月13日

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬


三菱高島砿業所

所長  中村 一郎 殿


9月8日貴申入れによると

「絶対許されない」、就業規則に基づき「処罰さるべきものである」等は

全く事実無根、不当な貴方の一方的判断といわざるを得ません。

当方は、貴方のこの様な態度を容認することが出来ませんので、

下記の通り実力行使にはいり要求貫徹まで斗うことを通告します。

 

一 指標

   1 松浦係員の暴言撤回

   2 職場の民主化確立

二 期日並びに規模

   1  9月17日1番方より1時間50分時限ストライキ

   2  9月18日以降、坑内全職種一斉1時間休憩完全実   以上



(8)結末

組合の実力行使を背景に、9月16日最終団体交渉を再開した結果、

事件は9月17日早朝、次の覚書をもって急転直下解決しました。



 覚(要旨) 

一 今回の事件については、当事者ならびに労使代表を交え別途話合う

二 今後この種紛議を未然に防止し、職場の明朗化に努めるため次、

  (イ)休憩時間の作業で、払(採炭現場)全体に影響のある作業については、払代表に事前に連絡する。

  (ロ)生産阻害云々という如き言葉は、係員が不用意に用いないように教育する

  (ハ)休憩時間中、緊急作業で払代表に連絡しなかった場合は、機械を止めず、

     不審の場合は係員に連絡して確かめる。

   以上は高島の実態を認識し、職場の円滑な作業遂行に通ずるものであることを

   双方確認する。

   昭和37年9月17日

                    高島砿業所長      中村 一郎

高島炭砿労働組合長   一ノ瀬 喬

 

以上が公式的な交渉結末で、組合側のストは回避され、話は下部組織に差し戻されました。



(9
)まとめ

組合側の闘争宣言に対する最終団交は誠にあっけなく、

要は当事者同士で手打ち式をやれという内容
に終ったが

この程度の結末に日時をかける事は無かった筈、裏に何があった?


決着後、事件当事者の私に会社からの処分もなく

私も生産阻害者と言う言葉で謝罪した覚えもない

また無罪放免になったS代表も警戒感からか挑発的な言動は避けて通った。


記憶にあるのは組合側採炭職協会長N氏、S代表、上司採炭主任K氏と私の4人で

酒を酌み交わし唄を歌い、こんな事はもう起さぬ様にお互い努力しようと手拍子を打った事だけ。


N採炭職恊会長とは、過去の現場で共に仕事をしたので、知らぬ仲ではなかったし、

S代表の親分的存在でもあった。

本件の解決に炭坑の親分子分の関係が底辺で動いた様に思えた。


然し後で分ったのは、三菱本社の指令で、ビルド砿として対外的にも

ストだけは何としてでも回避せよと現地に厳命されていた由


そのための妥協が、水面下で行われた様だ。


そして私を庇い、励ましてくれた上司のK主任がまず転勤になり

暫くしてZ係長も転勤になった

思い過ごしかも知れないがこれは松浦事件と無関係ではないと受け止めた。


個人的な話として、一年後 転勤先のK氏、Z氏を個別に訪問して

ご迷惑をお掛けした事を詫びると同時に、

人事異動の真相に迫ったがお二人共 黙して語ろうとしなかった


お二人が事件を未然防止できなかった指導責任を問われた丈のもの、だったのか

お二人
の強硬姿勢を組合に狙撃されスト回避の為の生贄にされたのでは?

果して真相は??


末端係員の士気に及ぼす影響を配慮してか、

私に何のお咎めもなかったが、

お二人が私の咎を肩替りされたとしたら会社側の譲歩は明白!

勝馬気分の私は
一転、奈落の底に・・


私は入社前から端島砿(軍艦島)勤務を夢見ていたが

この事件で高島労組に背中を見せる訳に行かず、

端島のハの字も口にするまいと、自分に誓い、ぐっと我慢の毎日だった。

※学生時代より軍艦島に憧れ、是非端島で仕事がしたくて就職先に三菱鉱業を選んだ。


時移り松浦事件のほとぼりも醒めた昭和40年9月、坑内災害で休山中の端島砿が生産再開を機に

高島砿から派遣される技術陣の一員に私も加わり7年半の高島砿勤務に終止符

※昭和39年8月に端島深部区域の炭層が自然発火し水没放棄、浅部の三ッ瀬区域に新展開


過ぎ去りし往昔、良き人生勉強の場を提供してくれた今は廃墟の高島砿に、

とやかく言う積りはないが、忌まわしい職場闘争の体験だけは書き残しておきたいと思いました。


職場闘争のS代表は、私よりも年若く採炭鉱員としての経験も浅く、

ソ連を崇拝し、左翼かぶれのイデオロギーに染まり、

目を放せば仕事の手を休めていた人物でした。


令和の時代、この様な若者がいたとして、会社はかかる人物を永年雇用すると思いますか?

まして就業規則違反すれすれの行為を、会社は黙認しますか? 恐らく懲戒ものでしょう。


仕事をしてもしなくても給料が貰える。

定年まで職場の配置転換もしないで、過酷な職場レベルの賃金が貰えるなんて、

こんなパラダイスが、今時存在しますか?


部下に上手に作業指示していれば、トラブルは起きず、

四方丸く収まり仕事も進んだという見方もあった
のは事実ですが、

それで企業の生産性は向上し、存続できたでしょうか?


その後の高島砿は、ビルド砿として生き残りを賭けた会社側の厖大な設備投資や

対労問題の積極的改善で、やっと立ち直ったものの

時 既に遅し石油との勝敗は明白に


結果として高島砿は昭和61年11月27日を以って閉山、

従業員は全員解雇され、労組も翌年2月18日解散の憂き目に

三菱が潰れても高島炭砿は残る」の旗印は何だったのか?


会社が潰れても炭砿は生き残れると豪語指導した「炭労」も今何処に居るのでしょうか?

結局働く者を扇動した挙句、会社の寿命を縮め、失業させた無責任な活動屋は今どこに?


彼らは歴史の中にひっそりと消えて行きました。

ソ連に夢を抱いた若者達は、ソ連崩壊をどう受け止め、

冷戦後をどう生きたのだろうか?


Sさん今何処に? 元気でいるかい!



2020年 5月6日  松浦 邦雄 記(87才)

 



参考資料

 高島炭砿史           発行 三菱鉱業セメント株式会社

 三菱高島炭砿労働組合30年史  発行 三菱高島炭砿労働組合

(1)はじめに

松浦事件は今から58年前、長崎港外の海底炭砿、

高島砿業所二子坑内の一採炭現場で起きた些細なトラブルで、

今思い出しても後世の教訓にも値しない幼稚な出來事でした。


これが何故 事件として大騒ぎになったかと説明する事で、

現在では考えられない非常識な当時の炭砿の労使紛争の一端を

私個人の自戒も含め遺言したく、一筆啓上致す次第です。


当時のこの事件にかかわった方で、現存者はもう極めて限られていると思います。

従って私の話は一方的との謗りを免れませんが、

虚構と御了承の上でお眼通し戴ければ幸いです。



(2
)松浦事件の当事者自己紹介

私は昭和33年3月末、W大学理工学部鉱山学科を卒業し、

4月1日三菱鉱業株式会社に入社、本社教育を受習後、

現場実習を兼ねて高島砿業所に赴任しました。


※高島砿業所
は、組織上 高島二子坑(通称高島砿)と、

端島坑 (
通称端島砿、軍艦島)の両坑で編成されていました。

私は赴任後 両砿で現場実習をしたのです。


東京での学生生活の4年間、私は九州の出身ながら江戸の名残に憧れを持ち、

特に下町界隈の散策を趣味としていました。

本所、深川など懐かしい思い出が今も忘れられません



2年に進級時、下宿も亀有駅近くに引っ越して、上野、浅草に近い事から

寄席や芝居小屋にも学業の合間に足繁く通いました。

女剣戟浅香光代との出会いも此処から始まったのです。


私は生い立ちが小倉だった所為か、無法松の一生や、川筋気質が肌に合い

成長してからは長谷川伸の小説に酔い

東京では義理と人情の浅香光代の芝居にスッカリはまりました。


大学で鉱山科を選んだのも、任侠の世界の炭砿こそ私の骨を埋める職場と考えたからです。

小倉は筑豊に近いので炭砿の事は身近に感じており、炭坑節にも深く馴染んでいました。


就職後赴任した高島砿は労使紛争真っ盛りで、私の夢見た古き良き炭砿とは全くの別世界、

これは大錯覚だったと気付いた時はもう後の祭り松浦事件の遠因は此処にあります



(3
)蛇足ながら (浅香光代さんとの出会い)

浅香さんのフアンは年配者が多く、私はお年寄りの間に挟まれ始めて芝居を見たのですが、

舞台から私は目だった様で、芝居が跳ねた後、出口で浅香光代さんに呼び止められました。


彼女は「学生さんですね? 貴方のような若い方が見に来て頂き 本当に嬉しい限りです。

これからは木戸銭など払わず、直接楽屋に来てくださいね。待ってますよ、キットですよ」


私はそのお言葉に甘え以後3年間、フリーパスで楽屋通いする事になり、

浅香さんは
私を弟の様に目をかけて下さり、

私の人生に大きな教訓を背中で示してくれたのです。


当時の浅草は女剣戟の花盛りで、大江美智子、不二洋子、中野弘子など

颯爽たる顔触れが覇を競い合ってましたが、

浅香光代の立ち回りは刀から火花が出る程の迫力がありました。


私が感服尊敬したのは、私よりも4才上の女性の身でありながら、

座長を務め、博学多彩芸達者に加え

多くの役者達を掌握して一座を纏め上げている指導力、統率力でした。


私は就職が内定した時、浅香さんに楽屋で

「九州長崎の軍艦島で石炭を掘る仕事を期待して三菱に入社しました」と報告し、

長い間の御厚情に感謝のご挨拶をしました。


その時 浅香さんの餞の言葉は、

私は日本一の女剣戟(役者)を目指して頑張っています

貴方もどうか日本一の鉱山技師になって下さいね

と云って力強く手を握られました。


そして日本刀一振りとオルゴールをお餞別に下さいました。

私は日本刀を胸に抱きしめ

日本一の鉱山技師を目指す事を約束し長崎に旅立ちました。

正に往きは良い酔いでした・・・



(4) 昭和30年代の高島砿業所二子坑( 通称 高島砿 )

昭和32年前半迄の職場は平穏な雰囲気があり、生産も比較的安定し、

従業員の多くは主に南九州各地の農家出身で純朴な気風があり、

正に炭坑節の世界だったと聞き及んでいます。


然し33年半ばより労使関係は次第に豹変「炭労」指導の職場闘争が高島砿にも浸透、

責任先山制度廃止後、払代表が選出され

作業指示に抵抗するなどの生産阻害行為が顕著に・・


※責任先山とは、採炭現場の作業進行推進役兼砿員の纏め役。 とは、採炭現場の通称。


当時総資本との対決を叫ぶ「総評」昔 陸軍、今 総評と言われた程の暴れ馬

「炭労」「総評」傘下で最先端を行くトップバッターでした。

※日経連や経団連を相手として


高島砿は 三井三池砿と並び称せられる三菱を代表するビルド(優良)砿であり、

「炭労」の指導による労使対決、そして末端における職場闘争の第一線にもなっていました。

※ビルド砿とは、低能率・低品質・不採算で早期閉山が宿命のスクラップ砿との対比用語


この為 現場は責任係員の指示の下、全員が出炭確保、

生産性の向上に努力するという
当然の組織運営が、

組合指令により切り崩され職場規律も乱れ作業意欲も低下・・・


もとより会社側は、この状態を傍観していた訳ではなく、

勤労課の管理体制を強化し合理的な交渉の実施により、

悪慣行の是正、正常作業の確保の為に努力をしたのですが・・・


ビルド砿として出炭確保を最優先せざるを得ない立場上、

会社側は組合の生産停止的行為に決定的な対決姿勢をとる事が出来ず、

最終的に譲歩妥協を図らねばならなかったのです



現場(坑務課)の係員達は、勤労課(労務担当課)から

「砿員と事を荒立てず、上手に作業指示しなさい」と強い口調で命令され、

作業指示よりも仕事をお願いする立場になりました。


同じ会社の人間でありながら、砿員をお客の様な接し方をしても、尊大になるばかりで

主従逆転、生産性の向上どころか、大半の採炭現場)は低迷する事態になりました。


正に主客転倒、職場トラブルを起そうものなら、

勤労課は当該係員に「人の使い方も知らんのか」と叱責する立場に変り、

後ろ楯を失った係員は仕事への意欲を徐々に喪失して・・


炭労傘下の高島労組は三菱は潰れても炭砿は残るを旗印に職場闘争に力を注ぎ、

係員に難癖をつけ、作業指示を妨害し、寄ってたかって吊し上げる様子が散見される事態に。


そこには、個人的な繋がりや、義理と人情の炭坑節の世界など遠い昔話に追いやられ、

ギスギスしたイデオロギー闘争が持ち込まれて、高能率の計画出炭の夢は遠い先の話に・・・


これはもう営利企業の形態を成しておらず、

高島砿は高品質で豊富な埋蔵量を誇るビルド砿にも関わらず、

作業能率は低下、出炭量は低迷、三菱鉱業の株価も額面割れ赤字に転落


需要家は炭砿スト続発による石炭の安定供給が望めなくなった事から、

徐々にエネルギーの供給先を安定した石油に切替える事になったが、

炭労はそんな事情をも意に介さずに。


結果として、炭労は石炭から石油へのエネルギー革命のお先棒を担いだ事になり、

採算の取れなくなった石炭の、そして炭鉱の寿命を奪っていく事に・・

正に先見の明なしでした。


読者の方で JR民営化以前に旧国鉄労組日常時限ストをご記憶ですか? 

お客の足を人質に、国鉄の赤字経営を意に介せず、

職場闘争に明け暮れていたのと酷似していました。


高島砿では昭和33年から試験切羽()定額賃金制度継続延長された為

砿員は当日の出炭量と無関係に定額賃金が貰えるので、

終業迄マイペースで仕事すれば良かったのです。

自然条件が異なる炭層に設定した新採炭現場能率給の算定基準が決まる迄の間定額給


極端な話、採炭機械やコンベア系統の故障になっても、

何ら気にする事なく、回復まで座りこんだまま。

以前だと「早く運転せんかい、銭にならんぞ」と怒鳴る雰囲気だったのに・・


定額給の現場では、目立つ仕事振りをする者は残業したくないのかと足を掬われ、

技能の低い者が職場委員として幅を利かせ、

真面目に働くのが馬鹿らしくなる雰囲気になり・・・


仕事始めに責任係員が砿員に現場状況や注意事項、作業指示のあと、

今度は組合側の払(職場)代表が組合の伝達事項を説明、質疑の後、

やっと作業にかかる状態が続いていました。


就業時間内に組合活動が許される事態、会社側が弱腰で組合側の生産管理を許した事になる。

出炭を焦る係員が低能率の砿員を追立てる形になれば、職場闘争側の思う壷に・・


砿員は払代表の指示で、作業をスローダウンして仕事を遅らせ、

残業に持込んで賃金増を図り、又民主化公平化と称し、

払代表が係員の頭越しに残業者順番制で指名割当てたり


組合側係員は採炭現場の安全を見守っていればよいのであって、

炭労指導により払代表のもと仕事は自分達で生産管理し

時間外作業で収入を増やす事
を考えていました。


過酷な石炭採掘の現場では、砿員は体力的に通常50才迄の年令が限度であったが、

高島砿では一旦採炭砿員となれば、定年迄現場で働く事が出来る様な悪慣行になっていました。


これが当時の高島砿業所二子坑の大方の雰囲気でした

同じ砿業所内の端島坑は組合が炭労傘下でなく全炭砿に属し

比較的穏健な全山一家の雰囲気二子坑とは雲泥の差でした。



(5) 松浦事件の経緯

私は33年高島砿業所に赴任、現場に必要な国家資格を取得後、

二子坑で優秀なM責任係員のもと、発破作業を始め現場係員の修行を積み

自立の機会を待ち焦がれていました。


そして待望の新設払に、松浦組(チーム)の責任係員として意気揚々と乗り込んだのです。

※入社4年目29才の私は周囲から松兄イと呼ばれる程に義理と人情の侠(イナセ)な男でした。

配下は副責任係員と発破兼務助手係員2名、採炭砿員40人の編成でした。


松浦組がスタートして3カ月後の昭和37年9月6日、

私は休憩時間後半にホーベルという

採炭機械の調節で石炭が詰りやすい付属ガイドチューブ内のチェーンの運転を命じました。


S払代表が同じ払内(採炭現場内)の電話から私に、

休憩時間にホーベルの運転はする事になっていないと言い、

2回にわたり運転ストップボタンを押してチェーンを止めた


休憩時間中の空運転は、既に直近でも4回も実施しており、

S代表がそうした実績を知らない筈がなく、

意図的なものがあったとしか考えられなかった


S代表はまだ年若くして(採炭現場)代表に選出された採炭員であるが、

民青(左翼的な思想にかぶれたグループ)まがいの言動をする職場活動家でもあったのです。


私はS代表に、「私は1昨日 Y代議員に対し、今後毎日空運転すると伝えている。

今日に
始まった事ではないのだ。

休憩後にホーベルが順調に稼動する為の準備作業である・・・

・・それを何故 非常用ボタンを押して停止させたのだ

勝手に運転を止めるなど生産を阻害する行為じゃないか。

お前は生産阻害者だぞ!


何を言ってやんでぃの気分でした。


その言葉にS代表が食いついて来たので、

「分った昇坑後話をつけよう」と電話を切った。

昇坑後 私は上司のZ係長に一部始終を報告し、S代表は組合上層部に連絡を取った由。


翌7日朝 F組合労働部長とN採炭職協会長がS代表らを集めて事情徴収した模様で

その後私を含めた会社側との折衝が始まり、話は更に上部レベルに持ち越されました。



(6)周囲の反響

事件は忽ち坑務課内の係員はじめ坑内工作課内の職員層にも広まり、

「よくやったぞ、負けるな!」の激励に囲まれた。

彼らは日頃の鬱憤を私の行動で晴らされた気持だった様です。


同時に係員達は会社側がこれを機に強気に転じてくれる事を期待し

成り行をじっと見守り、上司Z係長、K主任もまた、強硬な発言をして

私を援護し勇気付けてくれました


勤労課(労務担当)の関係者も

「オイオイ すごい事をやって呉れたなあ。相手も強気に出てくると思うが、

職場規律改革の突破口にしていきたい」と意欲的でした。


また私を育成しくれたM責任係員からも力強く励まされ

挫けてなるものかと、現場では職場委員達に毅然たる態度で接しながら、

一般採炭砿員には人間関係維持に配慮しました。


組合側は会社側がいつに無く強硬で、交渉の進展が難航して居る事を街角の組合掲示板に書き出し

又個人的に私の事を、思いもかけぬ表現で並びたてて評判になっていました。


払代表に萎縮などせず、啖呵を切ったことが組合幹部を驚かせたらしい。

時代錯誤の帝国陸海軍の亡霊が高島に現れたと切り出し

事件の内容を組合掲示板に書きたてました。


新婚早々の私のかみさんもご近所の噂を聞いて、

掲示板を見に出かけて、帰宅した私に組合側の表現を笑いころげながら報告し、

九州の江戸ツ子頑張れ!」と励ましてくれました。


世間慣れしていないかみさんが笑いころげるとは、

当時に組合がいかに左翼的で、国鉄労組まがいの世間の常識を逸した活動振りであるか、

お分かりの事と思います。



(7)交渉経緯要旨の要約

度重なる交渉の結果、9月8日に組合は会社側に申入書を送り、会社は回答書を返送した。

昭和37年9月8日付、組合側、会社側双方の言い分(要旨)は下記のとおりです。





組合側申入書(の要旨

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬 

三菱高島砿業所

 所長  中村 一郎 殿


S代表と松浦係員との問題について度重なる話し合いは遺憾ながら決裂を致しました。

当方は職場代表との話し合いの精神を無視し、

また生産阻害者という暴言についての会社の考え方は容認できません

従って、本日の松浦組の休憩時間中、残業時のホーベルの空運転は協力できません

また暴言についても、貴方の良識ある回答が得られないとすれば、

重大な決意を持って望まざるを得ません

しかし貴方の誠意ある話し合いには、何時にでも応じる用意がある事を付け加え、

ここに
申し入れます。  以上



会社側申入書(回答の要旨)

 

高島砿業所

所長  中村 一郎
三菱高島炭砿労働組合

 組合長  一ノ瀬 喬 殿


昭和37年9月8日付貴申入書を以って、本日の松浦組の空運転は実施しないという

通告に接しましたが、本件は休憩時間中のホーベルチェーンの空運転を

個人の恣意を以って停止させたい
という事から起こったものであり、

この空運転は故障防止のため、当日以前より当該払に於いて円滑に実施されている事であります

これに対し一種の争議行為を持って対抗される事は当をえないもので、

当方として誠に心外に思います。

特に当坑操業危機建て直しに労使が前向きに取り組まざるを得ない時に、

この様なことは
会社自体の問題としても、又社会的にも絶対に許されないことであるので、

問題を不当に拡大する事のない様に冷静に対処されるよう厳に要望します

尚 勝手に運転を中止した者等については、

実態究明の上就業規則に基づき処罰されるべきものである事を申し添えます。  以上


組合側執行委員会は会社側の申入書は、まったく誠意がなく、しかも一方的であるとして、

以下の反論と通告を行いました。




 組合側申入書(の要旨)

昭和37年9月13日

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬


三菱高島砿業所

所長  中村 一郎 殿


9月8日貴申入れによると

「絶対許されない」、就業規則に基づき「処罰さるべきものである」等は

全く事実無根、不当な貴方の一方的判断といわざるを得ません。

当方は、貴方のこの様な態度を容認することが出来ませんので、

下記の通り実力行使にはいり要求貫徹まで斗うことを通告します。

 

一 指標

   1 松浦係員の暴言撤回

   2 職場の民主化確立

二 期日並びに規模

   1  9月17日1番方より1時間50分時限ストライキ

   2  9月18日以降、坑内全職種一斉1時間休憩完全実   以上



(8)結末

組合の実力行使を背景に、9月16日最終団体交渉を再開した結果、

事件は9月17日早朝、次の覚書をもって急転直下解決しました。



 覚(要旨) 

一 今回の事件については、当事者ならびに労使代表を交え別途話合う

二 今後この種紛議を未然に防止し、職場の明朗化に努めるため次、

  (イ)休憩時間の作業で、払(採炭現場)全体に影響のある作業については、払代表に事前に連絡する。

  (ロ)生産阻害云々という如き言葉は、係員が不用意に用いないように教育する

  (ハ)休憩時間中、緊急作業で払代表に連絡しなかった場合は、機械を止めず、

     不審の場合は係員に連絡して確かめる。

   以上は高島の実態を認識し、職場の円滑な作業遂行に通ずるものであることを

   双方確認する。

   昭和37年9月17日

                    高島砿業所長      中村 一郎

高島炭砿労働組合長   一ノ瀬 喬

 

以上が公式的な交渉結末で、組合側のストは回避され、話は下部組織に差し戻されました。



(9
)まとめ

組合側の闘争宣言に対する最終団交は誠にあっけなく、

要は当事者同士で手打ち式をやれという内容
に終ったが

この程度の結末に日時をかける事は無かった筈、裏に何があった?


決着後、事件当事者の私に会社からの処分もなく

私も生産阻害者と言う言葉で謝罪した覚えもない

また無罪放免になったS代表も警戒感からか挑発的な言動は避けて通った。


記憶にあるのは組合側採炭職協会長N氏、S代表、上司採炭主任K氏と私の4人で

酒を酌み交わし唄を歌い、こんな事はもう起さぬ様にお互い努力しようと手拍子を打った事だけ。


N採炭職恊会長とは、過去の現場で共に仕事をしたので、知らぬ仲ではなかったし、

S代表の親分的存在でもあった。

本件の解決に炭坑の親分子分の関係が底辺で動いた様に思えた。


然し後で分ったのは、三菱本社の指令で、ビルド砿として対外的にも

ストだけは何としてでも回避せよと現地に厳命されていた由


そのための妥協が、水面下で行われた様だ。


そして私を庇い、励ましてくれた上司のK主任がまず転勤になり

暫くしてZ係長も転勤になった

思い過ごしかも知れないがこれは松浦事件と無関係ではないと受け止めた。


個人的な話として、一年後 転勤先のK氏、Z氏を個別に訪問して

ご迷惑をお掛けした事を詫びると同時に、

人事異動の真相に迫ったがお二人共 黙して語ろうとしなかった


お二人が事件を未然防止できなかった指導責任を問われた丈のもの、だったのか

お二人
の強硬姿勢を組合に狙撃されスト回避の為の生贄にされたのでは?

果して真相は??


末端係員の士気に及ぼす影響を配慮してか、

私に何のお咎めもなかったが、

お二人が私の咎を肩替りされたとしたら会社側の譲歩は明白!

勝馬気分の私は
一転、奈落の底に・・


私は入社前から端島砿(軍艦島)勤務を夢見ていたが

この事件で高島労組に背中を見せる訳に行かず、

端島のハの字も口にするまいと、自分に誓い、ぐっと我慢の毎日だった。

※学生時代より軍艦島に憧れ、是非端島で仕事がしたくて就職先に三菱鉱業を選んだ。


時移り松浦事件のほとぼりも醒めた昭和40年9月、坑内災害で休山中の端島砿が生産再開を機に

高島砿から派遣される技術陣の一員に私も加わり7年半の高島砿勤務に終止符

※昭和39年8月に端島深部区域の炭層が自然発火し水没放棄、浅部の三ッ瀬区域に新展開


過ぎ去りし往昔、良き人生勉強の場を提供してくれた今は廃墟の高島砿に、

とやかく言う積りはないが、忌まわしい職場闘争の体験だけは書き残しておきたいと思いました。


職場闘争のS代表は、私よりも年若く採炭鉱員としての経験も浅く、

ソ連を崇拝し、左翼かぶれのイデオロギーに染まり、

目を放せば仕事の手を休めていた人物でした。


令和の時代、この様な若者がいたとして、会社はかかる人物を永年雇用すると思いますか?

まして就業規則違反すれすれの行為を、会社は黙認しますか? 恐らく懲戒ものでしょう。


仕事をしてもしなくても給料が貰える。

定年まで職場の配置転換もしないで、過酷な職場レベルの賃金が貰えるなんて、

こんなパラダイスが、今時存在しますか?


部下に上手に作業指示していれば、トラブルは起きず、

四方丸く収まり仕事も進んだという見方もあった
のは事実ですが、

それで企業の生産性は向上し、存続できたでしょうか?


その後の高島砿は、ビルド砿として生き残りを賭けた会社側の厖大な設備投資や

対労問題の積極的改善で、やっと立ち直ったものの

時 既に遅し石油との勝敗は明白に


結果として高島砿は昭和61年11月27日を以って閉山、

従業員は全員解雇され、労組も翌年2月18日解散の憂き目に

三菱が潰れても高島炭砿は残る」の旗印は何だったのか?


会社が潰れても炭砿は生き残れると豪語指導した「炭労」も今何処に居るのでしょうか?

結局働く者を扇動した挙句、会社の寿命を縮め、失業させた無責任な活動屋は今どこに?


彼らは歴史の中にひっそりと消えて行きました。

ソ連に夢を抱いた若者達は、ソ連崩壊をどう受け止め、

冷戦後をどう生きたのだろうか?


Sさん今何処に? 元気でいるかい!



2020年 5月6日  松浦 邦雄 記(87才)

 



参考資料

 高島炭砿史           発行 三菱鉱業セメント株式会社

 三菱高島炭砿労働組合30年史  発行 三菱高島炭砿労働組合

(1)はじめに

松浦事件は今から58年前、長崎港外の海底炭砿、

高島砿業所二子坑内の一採炭現場で起きた些細なトラブルで、

今思い出しても後世の教訓にも値しない幼稚な出來事でした。


これが何故 事件として大騒ぎになったかと説明する事で、

現在では考えられない非常識な当時の炭砿の労使紛争の一端を

私個人の自戒も含め遺言したく、一筆啓上致す次第です。


当時のこの事件にかかわった方で、現存者はもう極めて限られていると思います。

従って私の話は一方的との謗りを免れませんが、

虚構と御了承の上でお眼通し戴ければ幸いです。



(2
)松浦事件の当事者自己紹介

私は昭和33年3月末、W大学理工学部鉱山学科を卒業し、

4月1日三菱鉱業株式会社に入社、本社教育を受習後、

現場実習を兼ねて高島砿業所に赴任しました。


※高島砿業所
は、組織上 高島二子坑(通称高島砿)と、

端島坑 (
通称端島砿、軍艦島)の両坑で編成されていました。

私は赴任後 両砿で現場実習をしたのです。


東京での学生生活の4年間、私は九州の出身ながら江戸の名残に憧れを持ち、

特に下町界隈の散策を趣味としていました。

本所、深川など懐かしい思い出が今も忘れられません



2年に進級時、下宿も亀有駅近くに引っ越して、上野、浅草に近い事から

寄席や芝居小屋にも学業の合間に足繁く通いました。

女剣戟浅香光代との出会いも此処から始まったのです。


私は生い立ちが小倉だった所為か、無法松の一生や、川筋気質が肌に合い

成長してからは長谷川伸の小説に酔い

東京では義理と人情の浅香光代の芝居にスッカリはまりました。


大学で鉱山科を選んだのも、任侠の世界の炭砿こそ私の骨を埋める職場と考えたからです。

小倉は筑豊に近いので炭砿の事は身近に感じており、炭坑節にも深く馴染んでいました。


就職後赴任した高島砿は労使紛争真っ盛りで、私の夢見た古き良き炭砿とは全くの別世界、

これは大錯覚だったと気付いた時はもう後の祭り松浦事件の遠因は此処にあります



(3
)蛇足ながら (浅香光代さんとの出会い)

浅香さんのフアンは年配者が多く、私はお年寄りの間に挟まれ始めて芝居を見たのですが、

舞台から私は目だった様で、芝居が跳ねた後、出口で浅香光代さんに呼び止められました。


彼女は「学生さんですね? 貴方のような若い方が見に来て頂き 本当に嬉しい限りです。

これからは木戸銭など払わず、直接楽屋に来てくださいね。待ってますよ、キットですよ」


私はそのお言葉に甘え以後3年間、フリーパスで楽屋通いする事になり、

浅香さんは
私を弟の様に目をかけて下さり、

私の人生に大きな教訓を背中で示してくれたのです。


当時の浅草は女剣戟の花盛りで、大江美智子、不二洋子、中野弘子など

颯爽たる顔触れが覇を競い合ってましたが、

浅香光代の立ち回りは刀から火花が出る程の迫力がありました。


私が感服尊敬したのは、私よりも4才上の女性の身でありながら、

座長を務め、博学多彩芸達者に加え

多くの役者達を掌握して一座を纏め上げている指導力、統率力でした。


私は就職が内定した時、浅香さんに楽屋で

「九州長崎の軍艦島で石炭を掘る仕事を期待して三菱に入社しました」と報告し、

長い間の御厚情に感謝のご挨拶をしました。


その時 浅香さんの餞の言葉は、

私は日本一の女剣戟(役者)を目指して頑張っています

貴方もどうか日本一の鉱山技師になって下さいね

と云って力強く手を握られました。


そして日本刀一振りとオルゴールをお餞別に下さいました。

私は日本刀を胸に抱きしめ

日本一の鉱山技師を目指す事を約束し長崎に旅立ちました。

正に往きは良い酔いでした・・・



(4) 昭和30年代の高島砿業所二子坑( 通称 高島砿 )

昭和32年前半迄の職場は平穏な雰囲気があり、生産も比較的安定し、

従業員の多くは主に南九州各地の農家出身で純朴な気風があり、

正に炭坑節の世界だったと聞き及んでいます。


然し33年半ばより労使関係は次第に豹変「炭労」指導の職場闘争が高島砿にも浸透、

責任先山制度廃止後、払代表が選出され

作業指示に抵抗するなどの生産阻害行為が顕著に・・


※責任先山とは、採炭現場の作業進行推進役兼砿員の纏め役。 とは、採炭現場の通称。


当時総資本との対決を叫ぶ「総評」昔 陸軍、今 総評と言われた程の暴れ馬

「炭労」「総評」傘下で最先端を行くトップバッターでした。

※日経連や経団連を相手として


高島砿は 三井三池砿と並び称せられる三菱を代表するビルド(優良)砿であり、

「炭労」の指導による労使対決、そして末端における職場闘争の第一線にもなっていました。

※ビルド砿とは、低能率・低品質・不採算で早期閉山が宿命のスクラップ砿との対比用語


この為 現場は責任係員の指示の下、全員が出炭確保、

生産性の向上に努力するという
当然の組織運営が、

組合指令により切り崩され職場規律も乱れ作業意欲も低下・・・


もとより会社側は、この状態を傍観していた訳ではなく、

勤労課の管理体制を強化し合理的な交渉の実施により、

悪慣行の是正、正常作業の確保の為に努力をしたのですが・・・


ビルド砿として出炭確保を最優先せざるを得ない立場上、

会社側は組合の生産停止的行為に決定的な対決姿勢をとる事が出来ず、

最終的に譲歩妥協を図らねばならなかったのです



現場(坑務課)の係員達は、勤労課(労務担当課)から

「砿員と事を荒立てず、上手に作業指示しなさい」と強い口調で命令され、

作業指示よりも仕事をお願いする立場になりました。


同じ会社の人間でありながら、砿員をお客の様な接し方をしても、尊大になるばかりで

主従逆転、生産性の向上どころか、大半の採炭現場)は低迷する事態になりました。


正に主客転倒、職場トラブルを起そうものなら、

勤労課は当該係員に「人の使い方も知らんのか」と叱責する立場に変り、

後ろ楯を失った係員は仕事への意欲を徐々に喪失して・・


炭労傘下の高島労組は三菱は潰れても炭砿は残るを旗印に職場闘争に力を注ぎ、

係員に難癖をつけ、作業指示を妨害し、寄ってたかって吊し上げる様子が散見される事態に。


そこには、個人的な繋がりや、義理と人情の炭坑節の世界など遠い昔話に追いやられ、

ギスギスしたイデオロギー闘争が持ち込まれて、高能率の計画出炭の夢は遠い先の話に・・・


これはもう営利企業の形態を成しておらず、

高島砿は高品質で豊富な埋蔵量を誇るビルド砿にも関わらず、

作業能率は低下、出炭量は低迷、三菱鉱業の株価も額面割れ赤字に転落


需要家は炭砿スト続発による石炭の安定供給が望めなくなった事から、

徐々にエネルギーの供給先を安定した石油に切替える事になったが、

炭労はそんな事情をも意に介さずに。


結果として、炭労は石炭から石油へのエネルギー革命のお先棒を担いだ事になり、

採算の取れなくなった石炭の、そして炭鉱の寿命を奪っていく事に・・

正に先見の明なしでした。


読者の方で JR民営化以前に旧国鉄労組日常時限ストをご記憶ですか? 

お客の足を人質に、国鉄の赤字経営を意に介せず、

職場闘争に明け暮れていたのと酷似していました。


高島砿では昭和33年から試験切羽()定額賃金制度継続延長された為

砿員は当日の出炭量と無関係に定額賃金が貰えるので、

終業迄マイペースで仕事すれば良かったのです。

自然条件が異なる炭層に設定した新採炭現場能率給の算定基準が決まる迄の間定額給


極端な話、採炭機械やコンベア系統の故障になっても、

何ら気にする事なく、回復まで座りこんだまま。

以前だと「早く運転せんかい、銭にならんぞ」と怒鳴る雰囲気だったのに・・


定額給の現場では、目立つ仕事振りをする者は残業したくないのかと足を掬われ、

技能の低い者が職場委員として幅を利かせ、

真面目に働くのが馬鹿らしくなる雰囲気になり・・・


仕事始めに責任係員が砿員に現場状況や注意事項、作業指示のあと、

今度は組合側の払(職場)代表が組合の伝達事項を説明、質疑の後、

やっと作業にかかる状態が続いていました。


就業時間内に組合活動が許される事態、会社側が弱腰で組合側の生産管理を許した事になる。

出炭を焦る係員が低能率の砿員を追立てる形になれば、職場闘争側の思う壷に・・


砿員は払代表の指示で、作業をスローダウンして仕事を遅らせ、

残業に持込んで賃金増を図り、又民主化公平化と称し、

払代表が係員の頭越しに残業者順番制で指名割当てたり


組合側係員は採炭現場の安全を見守っていればよいのであって、

炭労指導により払代表のもと仕事は自分達で生産管理し

時間外作業で収入を増やす事
を考えていました。


過酷な石炭採掘の現場では、砿員は体力的に通常50才迄の年令が限度であったが、

高島砿では一旦採炭砿員となれば、定年迄現場で働く事が出来る様な悪慣行になっていました。


これが当時の高島砿業所二子坑の大方の雰囲気でした

同じ砿業所内の端島坑は組合が炭労傘下でなく全炭砿に属し

比較的穏健な全山一家の雰囲気二子坑とは雲泥の差でした。



(5) 松浦事件の経緯

私は33年高島砿業所に赴任、現場に必要な国家資格を取得後、

二子坑で優秀なM責任係員のもと、発破作業を始め現場係員の修行を積み

自立の機会を待ち焦がれていました。


そして待望の新設払に、松浦組(チーム)の責任係員として意気揚々と乗り込んだのです。

※入社4年目29才の私は周囲から松兄イと呼ばれる程に義理と人情の侠(イナセ)な男でした。

配下は副責任係員と発破兼務助手係員2名、採炭砿員40人の編成でした。


松浦組がスタートして3カ月後の昭和37年9月6日、

私は休憩時間後半にホーベルという

採炭機械の調節で石炭が詰りやすい付属ガイドチューブ内のチェーンの運転を命じました。


S払代表が同じ払内(採炭現場内)の電話から私に、

休憩時間にホーベルの運転はする事になっていないと言い、

2回にわたり運転ストップボタンを押してチェーンを止めた


休憩時間中の空運転は、既に直近でも4回も実施しており、

S代表がそうした実績を知らない筈がなく、

意図的なものがあったとしか考えられなかった


S代表はまだ年若くして(採炭現場)代表に選出された採炭員であるが、

民青(左翼的な思想にかぶれたグループ)まがいの言動をする職場活動家でもあったのです。


私はS代表に、「私は1昨日 Y代議員に対し、今後毎日空運転すると伝えている。

今日に
始まった事ではないのだ。

休憩後にホーベルが順調に稼動する為の準備作業である・・・

・・それを何故 非常用ボタンを押して停止させたのだ

勝手に運転を止めるなど生産を阻害する行為じゃないか。

お前は生産阻害者だぞ!


何を言ってやんでぃの気分でした。


その言葉にS代表が食いついて来たので、

「分った昇坑後話をつけよう」と電話を切った。

昇坑後 私は上司のZ係長に一部始終を報告し、S代表は組合上層部に連絡を取った由。


翌7日朝 F組合労働部長とN採炭職協会長がS代表らを集めて事情徴収した模様で

その後私を含めた会社側との折衝が始まり、話は更に上部レベルに持ち越されました。



(6)周囲の反響

事件は忽ち坑務課内の係員はじめ坑内工作課内の職員層にも広まり、

「よくやったぞ、負けるな!」の激励に囲まれた。

彼らは日頃の鬱憤を私の行動で晴らされた気持だった様です。


同時に係員達は会社側がこれを機に強気に転じてくれる事を期待し

成り行をじっと見守り、上司Z係長、K主任もまた、強硬な発言をして

私を援護し勇気付けてくれました


勤労課(労務担当)の関係者も

「オイオイ すごい事をやって呉れたなあ。相手も強気に出てくると思うが、

職場規律改革の突破口にしていきたい」と意欲的でした。


また私を育成しくれたM責任係員からも力強く励まされ

挫けてなるものかと、現場では職場委員達に毅然たる態度で接しながら、

一般採炭砿員には人間関係維持に配慮しました。


組合側は会社側がいつに無く強硬で、交渉の進展が難航して居る事を街角の組合掲示板に書き出し

又個人的に私の事を、思いもかけぬ表現で並びたてて評判になっていました。


払代表に萎縮などせず、啖呵を切ったことが組合幹部を驚かせたらしい。

時代錯誤の帝国陸海軍の亡霊が高島に現れたと切り出し

事件の内容を組合掲示板に書きたてました。


新婚早々の私のかみさんもご近所の噂を聞いて、

掲示板を見に出かけて、帰宅した私に組合側の表現を笑いころげながら報告し、

九州の江戸ツ子頑張れ!」と励ましてくれました。


世間慣れしていないかみさんが笑いころげるとは、

当時に組合がいかに左翼的で、国鉄労組まがいの世間の常識を逸した活動振りであるか、

お分かりの事と思います。



(7)交渉経緯要旨の要約

度重なる交渉の結果、9月8日に組合は会社側に申入書を送り、会社は回答書を返送した。

昭和37年9月8日付、組合側、会社側双方の言い分(要旨)は下記のとおりです。





組合側申入書(の要旨

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬 

三菱高島砿業所

 所長  中村 一郎 殿


S代表と松浦係員との問題について度重なる話し合いは遺憾ながら決裂を致しました。

当方は職場代表との話し合いの精神を無視し、

また生産阻害者という暴言についての会社の考え方は容認できません

従って、本日の松浦組の休憩時間中、残業時のホーベルの空運転は協力できません

また暴言についても、貴方の良識ある回答が得られないとすれば、

重大な決意を持って望まざるを得ません

しかし貴方の誠意ある話し合いには、何時にでも応じる用意がある事を付け加え、

ここに
申し入れます。  以上



会社側申入書(回答の要旨)

 

高島砿業所

所長  中村 一郎
三菱高島炭砿労働組合

 組合長  一ノ瀬 喬 殿


昭和37年9月8日付貴申入書を以って、本日の松浦組の空運転は実施しないという

通告に接しましたが、本件は休憩時間中のホーベルチェーンの空運転を

個人の恣意を以って停止させたい
という事から起こったものであり、

この空運転は故障防止のため、当日以前より当該払に於いて円滑に実施されている事であります

これに対し一種の争議行為を持って対抗される事は当をえないもので、

当方として誠に心外に思います。

特に当坑操業危機建て直しに労使が前向きに取り組まざるを得ない時に、

この様なことは
会社自体の問題としても、又社会的にも絶対に許されないことであるので、

問題を不当に拡大する事のない様に冷静に対処されるよう厳に要望します

尚 勝手に運転を中止した者等については、

実態究明の上就業規則に基づき処罰されるべきものである事を申し添えます。  以上


組合側執行委員会は会社側の申入書は、まったく誠意がなく、しかも一方的であるとして、

以下の反論と通告を行いました。




 組合側申入書(の要旨)

昭和37年9月13日

三菱高島炭砿労働組合

組合長  一ノ瀬 喬


三菱高島砿業所

所長  中村 一郎 殿


9月8日貴申入れによると

「絶対許されない」、就業規則に基づき「処罰さるべきものである」等は

全く事実無根、不当な貴方の一方的判断といわざるを得ません。

当方は、貴方のこの様な態度を容認することが出来ませんので、

下記の通り実力行使にはいり要求貫徹まで斗うことを通告します。

 

一 指標

   1 松浦係員の暴言撤回

   2 職場の民主化確立

二 期日並びに規模

   1  9月17日1番方より1時間50分時限ストライキ

   2  9月18日以降、坑内全職種一斉1時間休憩完全実   以上



(8)結末

組合の実力行使を背景に、9月16日最終団体交渉を再開した結果、

事件は9月17日早朝、次の覚書をもって急転直下解決しました。



 覚(要旨) 

一 今回の事件については、当事者ならびに労使代表を交え別途話合う

二 今後この種紛議を未然に防止し、職場の明朗化に努めるため次、

  (イ)休憩時間の作業で、払(採炭現場)全体に影響のある作業については、払代表に事前に連絡する。

  (ロ)生産阻害云々という如き言葉は、係員が不用意に用いないように教育する

  (ハ)休憩時間中、緊急作業で払代表に連絡しなかった場合は、機械を止めず、

     不審の場合は係員に連絡して確かめる。

   以上は高島の実態を認識し、職場の円滑な作業遂行に通ずるものであることを

   双方確認する。

   昭和37年9月17日

                    高島砿業所長      中村 一郎

高島炭砿労働組合長   一ノ瀬 喬

 

以上が公式的な交渉結末で、組合側のストは回避され、話は下部組織に差し戻されました。



(9
)まとめ

組合側の闘争宣言に対する最終団交は誠にあっけなく、

要は当事者同士で手打ち式をやれという内容
に終ったが

この程度の結末に日時をかける事は無かった筈、裏に何があった?


決着後、事件当事者の私に会社からの処分もなく

私も生産阻害者と言う言葉で謝罪した覚えもない

また無罪放免になったS代表も警戒感からか挑発的な言動は避けて通った。


記憶にあるのは組合側採炭職協会長N氏、S代表、上司採炭主任K氏と私の4人で

酒を酌み交わし唄を歌い、こんな事はもう起さぬ様にお互い努力しようと手拍子を打った事だけ。


N採炭職恊会長とは、過去の現場で共に仕事をしたので、知らぬ仲ではなかったし、

S代表の親分的存在でもあった。

本件の解決に炭坑の親分子分の関係が底辺で動いた様に思えた。


然し後で分ったのは、三菱本社の指令で、ビルド砿として対外的にも

ストだけは何としてでも回避せよと現地に厳命されていた由


そのための妥協が、水面下で行われた様だ。


そして私を庇い、励ましてくれた上司のK主任がまず転勤になり

暫くしてZ係長も転勤になった

思い過ごしかも知れないがこれは松浦事件と無関係ではないと受け止めた。


個人的な話として、一年後 転勤先のK氏、Z氏を個別に訪問して

ご迷惑をお掛けした事を詫びると同時に、

人事異動の真相に迫ったがお二人共 黙して語ろうとしなかった


お二人が事件を未然防止できなかった指導責任を問われた丈のもの、だったのか

お二人
の強硬姿勢を組合に狙撃されスト回避の為の生贄にされたのでは?

果して真相は??


末端係員の士気に及ぼす影響を配慮してか、

私に何のお咎めもなかったが、

お二人が私の咎を肩替りされたとしたら会社側の譲歩は明白!

勝馬気分の私は
一転、奈落の底に・・


私は入社前から端島砿(軍艦島)勤務を夢見ていたが

この事件で高島労組に背中を見せる訳に行かず、

端島のハの字も口にするまいと、自分に誓い、ぐっと我慢の毎日だった。

※学生時代より軍艦島に憧れ、是非端島で仕事がしたくて就職先に三菱鉱業を選んだ。


時移り松浦事件のほとぼりも醒めた昭和40年9月、坑内災害で休山中の端島砿が生産再開を機に

高島砿から派遣される技術陣の一員に私も加わり7年半の高島砿勤務に終止符

※昭和39年8月に端島深部区域の炭層が自然発火し水没放棄、浅部の三ッ瀬区域に新展開


過ぎ去りし往昔、良き人生勉強の場を提供してくれた今は廃墟の高島砿に、

とやかく言う積りはないが、忌まわしい職場闘争の体験だけは書き残しておきたいと思いました。


職場闘争のS代表は、私よりも年若く採炭鉱員としての経験も浅く、

ソ連を崇拝し、左翼かぶれのイデオロギーに染まり、

目を放せば仕事の手を休めていた人物でした。


令和の時代、この様な若者がいたとして、会社はかかる人物を永年雇用すると思いますか?

まして就業規則違反すれすれの行為を、会社は黙認しますか? 恐らく懲戒ものでしょう。


仕事をしてもしなくても給料が貰える。

定年まで職場の配置転換もしないで、過酷な職場レベルの賃金が貰えるなんて、

こんなパラダイスが、今時存在しますか?


部下に上手に作業指示していれば、トラブルは起きず、

四方丸く収まり仕事も進んだという見方もあった
のは事実ですが、

それで企業の生産性は向上し、存続できたでしょうか?


その後の高島砿は、ビルド砿として生き残りを賭けた会社側の厖大な設備投資や

対労問題の積極的改善で、やっと立ち直ったものの

時 既に遅し石油との勝敗は明白に


結果として高島砿は昭和61年11月27日を以って閉山、

従業員は全員解雇され、労組も翌年2月18日解散の憂き目に

三菱が潰れても高島炭砿は残る」の旗印は何だったのか?


会社が潰れても炭砿は生き残れると豪語指導した「炭労」も今何処に居るのでしょうか?

結局働く者を扇動した挙句、会社の寿命を縮め、失業させた無責任な活動屋は今どこに?


彼らは歴史の中にひっそりと消えて行きました。

ソ連に夢を抱いた若者達は、ソ連崩壊をどう受け止め、

冷戦後をどう生きたのだろうか?


Sさん今何処に? 元気でいるかい!



2020年 5月6日  松浦 邦雄 記(87才)

 



参考資料

 高島炭砿史           発行 三菱鉱業セメント株式会社

 三菱高島炭砿労働組合30年史  発行 三菱高島炭砿労働組合

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