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    木下 稔 「思い出多き30号棟の崩壊」

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    木下 稔 「思い出多き30号棟の崩壊」

2020/05/27

木下 稔 「思い出多き30号棟の崩壊」

木下 稔 「思い出多き30号棟の崩壊」

木下 稔 「思い出多き30号棟の崩壊」

木下 稔 「思い出多き30号棟の崩壊」


「思い出多き30号棟の崩壊」



私は昭和2812月。

端島の昭和館の裏に
建てらていた長屋で生まれました。

現在は公民館になっていますが、生まれてすぐに30号棟に引っ越し

小学校に行くまで30号棟に住んでいました。


その30号棟での思い出は昭和31年に襲ってきた台風9

それと昭和34年に襲った台風14号。

「伊勢湾台風」とも呼ばれこの島に大きな被害をもたらした台風でもあります。

台風9号の時は記憶にありませんが

台風14号の時は台風が過ぎ去った後でも高潮の為に

水が引かず30号棟の1階は
水没していて家財道具が浮いていたのを覚えています。

また、桟橋も破壊され長崎に行く時は父親に抱きかかえられて

当時ポンポン船と
呼んでいた小さい船に乗ったのを記憶しております。

その後船頭長屋に引っ越し、そこから16号棟、65号棟の9階そして65号棟の6階が

この端島での最後の住居になりました。



 
端島での生活は、それは子供達にとって
大変楽しいものでした。



その端島が1974年(昭和49年)に閉山を迎え

無人島になったのを知ったのが21歳の時でした。

テレビで島を離れる最後の島民の姿を見て私の故郷が無くなってしまったと思い

父親に端島はこれからどうなるのか聞いてみました。

父親は、もう誰も住まなくなるのでおそらく建物は倒れてしまい

元の岩礁に戻るのではないかと言っていたのを覚えています。

事実私もそう思いましたし、私の子供達にも私の故郷は

無くなったと言い続けていました。



その後私も前の会社の定年を迎え、次の仕事を探していた所

私の故郷である「端島」を紹介するツアーの仕事に運よく出会うことが出来ました。

そのおかげで自分が生まれ育った端島が

これ程までに歴史があるとは思いもよりませんでしたし、

炭鉱の歴史をはじめ、構造物の歴史などを学ぶにつれて

いかにこの端島が素晴らしい島だったかを改めて知ることができ、

本当に嬉しく思っております。


 また、この端島を世界遺産に登録しようと多くの方々の

長きに渡る努力と熱い思いに
感謝の言葉しかございません。



がしかし、世界遺産に登録されて5年。

我々が一番心配していた端島の最古の「30号棟」が一部ではあるが崩落が始まってしまいました。

色々な方々から補強工事の提案も出されてはいました。

103年を迎えた建物が崩落するのは致し方ないのでしょうが、

今は少しだけでも長く原型を留めていてくれることを願うばかりです。

 



                                       木下 稔

 



木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。 

 

推移

 30号棟

         2020年3月28日

30号棟30号棟


「思い出多き30号棟の崩壊」



私は昭和2812月。

端島の昭和館の裏に
建てらていた長屋で生まれました。

現在は公民館になっていますが、生まれてすぐに30号棟に引っ越し

小学校に行くまで30号棟に住んでいました。


その30号棟での思い出は昭和31年に襲ってきた台風9

それと昭和34年に襲った台風14号。

「伊勢湾台風」とも呼ばれこの島に大きな被害をもたらした台風でもあります。

台風9号の時は記憶にありませんが

台風14号の時は台風が過ぎ去った後でも高潮の為に

水が引かず30号棟の1階は
水没していて家財道具が浮いていたのを覚えています。

また、桟橋も破壊され長崎に行く時は父親に抱きかかえられて

当時ポンポン船と
呼んでいた小さい船に乗ったのを記憶しております。

その後船頭長屋に引っ越し、そこから16号棟、65号棟の9階そして65号棟の6階が

この端島での最後の住居になりました。



 
端島での生活は、それは子供達にとって
大変楽しいものでした。



その端島が1974年(昭和49年)に閉山を迎え

無人島になったのを知ったのが21歳の時でした。

テレビで島を離れる最後の島民の姿を見て私の故郷が無くなってしまったと思い

父親に端島はこれからどうなるのか聞いてみました。

父親は、もう誰も住まなくなるのでおそらく建物は倒れてしまい

元の岩礁に戻るのではないかと言っていたのを覚えています。

事実私もそう思いましたし、私の子供達にも私の故郷は

無くなったと言い続けていました。



その後私も前の会社の定年を迎え、次の仕事を探していた所

私の故郷である「端島」を紹介するツアーの仕事に運よく出会うことが出来ました。

そのおかげで自分が生まれ育った端島が

これ程までに歴史があるとは思いもよりませんでしたし、

炭鉱の歴史をはじめ、構造物の歴史などを学ぶにつれて

いかにこの端島が素晴らしい島だったかを改めて知ることができ、

本当に嬉しく思っております。


 また、この端島を世界遺産に登録しようと多くの方々の

長きに渡る努力と熱い思いに
感謝の言葉しかございません。



がしかし、世界遺産に登録されて5年。

我々が一番心配していた端島の最古の「30号棟」が一部ではあるが崩落が始まってしまいました。

色々な方々から補強工事の提案も出されてはいました。

103年を迎えた建物が崩落するのは致し方ないのでしょうが、

今は少しだけでも長く原型を留めていてくれることを願うばかりです。

 



                                       木下 稔

 



木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。 

 

推移

 30号棟

         2020年3月28日

30号棟30号棟


「思い出多き30号棟の崩壊」



私は昭和2812月。

端島の昭和館の裏に
建てらていた長屋で生まれました。

現在は公民館になっていますが、生まれてすぐに30号棟に引っ越し

小学校に行くまで30号棟に住んでいました。


その30号棟での思い出は昭和31年に襲ってきた台風9

それと昭和34年に襲った台風14号。

「伊勢湾台風」とも呼ばれこの島に大きな被害をもたらした台風でもあります。

台風9号の時は記憶にありませんが

台風14号の時は台風が過ぎ去った後でも高潮の為に

水が引かず30号棟の1階は
水没していて家財道具が浮いていたのを覚えています。

また、桟橋も破壊され長崎に行く時は父親に抱きかかえられて

当時ポンポン船と
呼んでいた小さい船に乗ったのを記憶しております。

その後船頭長屋に引っ越し、そこから16号棟、65号棟の9階そして65号棟の6階が

この端島での最後の住居になりました。



 
端島での生活は、それは子供達にとって
大変楽しいものでした。



その端島が1974年(昭和49年)に閉山を迎え

無人島になったのを知ったのが21歳の時でした。

テレビで島を離れる最後の島民の姿を見て私の故郷が無くなってしまったと思い

父親に端島はこれからどうなるのか聞いてみました。

父親は、もう誰も住まなくなるのでおそらく建物は倒れてしまい

元の岩礁に戻るのではないかと言っていたのを覚えています。

事実私もそう思いましたし、私の子供達にも私の故郷は

無くなったと言い続けていました。



その後私も前の会社の定年を迎え、次の仕事を探していた所

私の故郷である「端島」を紹介するツアーの仕事に運よく出会うことが出来ました。

そのおかげで自分が生まれ育った端島が

これ程までに歴史があるとは思いもよりませんでしたし、

炭鉱の歴史をはじめ、構造物の歴史などを学ぶにつれて

いかにこの端島が素晴らしい島だったかを改めて知ることができ、

本当に嬉しく思っております。


 また、この端島を世界遺産に登録しようと多くの方々の

長きに渡る努力と熱い思いに
感謝の言葉しかございません。



がしかし、世界遺産に登録されて5年。

我々が一番心配していた端島の最古の「30号棟」が一部ではあるが崩落が始まってしまいました。

色々な方々から補強工事の提案も出されてはいました。

103年を迎えた建物が崩落するのは致し方ないのでしょうが、

今は少しだけでも長く原型を留めていてくれることを願うばかりです。

 



                                       木下 稔

 



木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。 

 

推移

 30号棟

         2020年3月28日

30号棟30号棟


「思い出多き30号棟の崩壊」



私は昭和2812月。

端島の昭和館の裏に
建てらていた長屋で生まれました。

現在は公民館になっていますが、生まれてすぐに30号棟に引っ越し

小学校に行くまで30号棟に住んでいました。


その30号棟での思い出は昭和31年に襲ってきた台風9

それと昭和34年に襲った台風14号。

「伊勢湾台風」とも呼ばれこの島に大きな被害をもたらした台風でもあります。

台風9号の時は記憶にありませんが

台風14号の時は台風が過ぎ去った後でも高潮の為に

水が引かず30号棟の1階は
水没していて家財道具が浮いていたのを覚えています。

また、桟橋も破壊され長崎に行く時は父親に抱きかかえられて

当時ポンポン船と
呼んでいた小さい船に乗ったのを記憶しております。

その後船頭長屋に引っ越し、そこから16号棟、65号棟の9階そして65号棟の6階が

この端島での最後の住居になりました。



 
端島での生活は、それは子供達にとって
大変楽しいものでした。



その端島が1974年(昭和49年)に閉山を迎え

無人島になったのを知ったのが21歳の時でした。

テレビで島を離れる最後の島民の姿を見て私の故郷が無くなってしまったと思い

父親に端島はこれからどうなるのか聞いてみました。

父親は、もう誰も住まなくなるのでおそらく建物は倒れてしまい

元の岩礁に戻るのではないかと言っていたのを覚えています。

事実私もそう思いましたし、私の子供達にも私の故郷は

無くなったと言い続けていました。



その後私も前の会社の定年を迎え、次の仕事を探していた所

私の故郷である「端島」を紹介するツアーの仕事に運よく出会うことが出来ました。

そのおかげで自分が生まれ育った端島が

これ程までに歴史があるとは思いもよりませんでしたし、

炭鉱の歴史をはじめ、構造物の歴史などを学ぶにつれて

いかにこの端島が素晴らしい島だったかを改めて知ることができ、

本当に嬉しく思っております。


 また、この端島を世界遺産に登録しようと多くの方々の

長きに渡る努力と熱い思いに
感謝の言葉しかございません。



がしかし、世界遺産に登録されて5年。

我々が一番心配していた端島の最古の「30号棟」が一部ではあるが崩落が始まってしまいました。

色々な方々から補強工事の提案も出されてはいました。

103年を迎えた建物が崩落するのは致し方ないのでしょうが、

今は少しだけでも長く原型を留めていてくれることを願うばかりです。

 



                                       木下 稔

 



木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。 

 

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         2020年3月28日

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