COLUMN元島民コラム

2018/08/01内芝伸子(旧姓:大場) 「心に輝く故郷」

私が育った島は、長崎港より18キロ離れた小島です。

1810年、小さな岩礁から燃える石(石炭)が出て、

1890年(明治23年)より三菱鉱業が採炭の為

炭鉱としての形を成しました。


それから長い年月、

小さな岩礁はボタ(商品にならない石)で埋め立てられ、

周囲1.2キロの小島となり良質な石炭(瀝青炭)を得る

三菱のドル箱となったのです。


島の高台に建っていた我が家からは、

朝は野母半島の先より昇る朝日を拝し、

また夕べには五島灘に沈む夕日でキラキラ光る海が見えて、

とても快適な暮らしでした。

夜更けては樺島燈台の廻る灯りを数えたりと、懐かしい思い出です。



私の父は坑内に入る方々の命綱である竪坑のワイヤーの安全や、

坑内で使われる機械整備などの担当をしており、

仕事がら兵役免除でしたが、当時増産の命令のもと、

兵役と同等以上の厳しい仕事であったと思います。


私たち子供は父が出勤の際、

玄関に母と子供一同並び「御安全に」と送り出していました。

他の家庭でも「いってらっしゃい」でなく、

事故が起きるとそれっきりという事もあり、

「御安全に」が島の朝の挨拶でした。


小学1年生の夏、

石炭運搬船を軍艦と間違えた米潜水艦の魚雷攻撃を受け

学校でも多々被害を受けました。

戦争中は「B29」が島の上空を低空飛行し、

操縦士の赤い顔と飛行メガネが恐ろしく忘れられません。

コンクリートの建物は、黒い塗料で斑模様になりました。


長崎市内に原爆が落とされたのは2年生8歳の時。

昼食の支度中、サイレンが鳴り「かまど」に水をかけた途端、

玄関の鏡が割れて落ちたのです。

外へ出てみると長崎の空がピンク色に染まり、

そのあとにモクモクと灰色の雲に変わるのを目にしました。


戦後、学校の遠足は天候より海が凪ぐのを願い、

行先は「長崎戸町水源地」と野母崎海岸通りを歩かされていました。

島では長距離を歩く事がないので先生方のご配慮だったのでしょう。

長崎への交通は日本初の鉄の船「夕顔丸」。

1日3便運航でギュウギュウ詰めで出かけました。


最後に、現在の端島は「軍艦島」として

長崎市の観光ドル箱になっていると聞きますが、

私達、子供時代の賑やかだった懐かしい想い出を共有している者には

本音として、静かに昔々の岩礁になり風化してほしかったと思っています。


内芝 伸子(旧姓:大場)プロフィール
昭和12年生まれ
19年間端島で生活した
父親は工作課長 8号棟で暮らしていた
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